昭和46年12月10日 月次祭



 分からして頂くと言う事は、いよいよ私が本当なものでは無いと言う事。いよいよ自分には力が無いと言う事。いわゆる無力であるという事。自分がいよいよ本当のものでは無いと言う事を分からせて頂く。本当のものでないと。本当なものに憧れを持つ様になる訳です。いよいよ力がなければ無い程に、いよいよ絶対の力に縋らなければおられない事になって来るのです。
 そこに人間の助かりというのがあるのです。まあだ、私が出来る。私が本当なものだと。そういう間は絶対に助かりえません。自分が本当なものだけれども、子供は本当じゃないと。ね。自分の力、いわゆる我力です。自分に力がある、出来る、自分に力がある、それを我力とこういう。その我力がある間、私が本当なものだと思うておる間はどんなにばたぐらっても助かりえないのです。信心はそういう根本的な所から助かって行うとするのが、信心です。いや、金光教の信心なんです。
 教祖金光大神様はそう言う所からご自身が御助かりになったのだと思います。ね。だからこそ、御理解にも「障子一重がままならぬ人の身である」と仰せられている。ね。人間に知恵力ではどうにも出来ないのだと。ね。いかに私共が助かりたい助かりたいと言うても、ね、ただ自分の願いがそこの一つ二つ成就したからというて助かったからというて、それで、助かるという事にはならない。ね。
 けれどもそう言う所をまあ、信心の手がかりとさせて頂いてお互い信心をさせて頂くので御座います。 いわゆる願う氏子におかげを授けと仰るのはそういう事であります。願う氏子におかげを授け。ね。理解申して聞かせと仰る。おかげをまず、ね、下さる。昨日、日田の綾部さんがお礼に出て見えられましてから大変、心易くしておられる方のお子さんがもういよいよ医者が難しいと言う事になって、「綾部さん、あなたが参っていなさっておる所に連れていって下さい、お願いをして下さい」というて。
 そのお願いがあっておったその翌日にその、お母さんになる人がお参りをしてきておった。それからもう一週間になりましょうか、参ってまいりませんでしたが、昨日綾部さんが言われますのには、もうそれこそもう大変な何て言うでしょうかね、実力者とでも申しましょうか、もう一代でもう三億円ぐらいの財産を貯め上げておられる方女です。その代りそれこそ人間の様に人が言わない程しの、評判を自分は知っておると。
 そして、三億円貯まりあがってしもうてからです、昨日ある色んな問題をです、初めて私は泣くというて綾部さんの前で大声をあげて泣かれたそうです。金やら物やらではいかん訳ですよね。もうそして、その、金じゃないと言う事が気が付かせて頂いて仏教の話を聞かせてもろうたり、色々するけれども、ま、助かっておる。ね。宗教の話も聞いておって助かっておる様であったけれども、実際問題に直面した時にそれはもろくも崩れて、実際に助けて頂く所があるならばという事になって来た訳。
 もう、「私の事をその人は姉さん姉さんと言われるが」と言うて綾部さんに言うておられましたが、ね、もうそれはもう、中々のやり手さんだそうですけれども、ね、それこそ、初めて私の前で、その、どうして良いやら分らんというて大声をあげて泣いたと。ね。人間の幸福と云う物は決して金やら物やらだけではない。健康だからではない。ね。そしてその、色んな悔み話をしてからそのまた、平常になられた時先日からの病人さんはどうかと言うておったら、それがおかげを頂いておかげを頂いたじゃない。
 不思議な事にあなたもう、助かりよりますよちいうて。そんならあんた早う御礼に出てこにゃ。そげんあんたが苦しい事があるなら合楽に朝参りでもさせて頂かにゃ。片一方の方はそれこそ死ぬか生きるか医者は難しいといわれてからその、あなたが参りよる所でんというてまあ、朝の御祈念に一遍参って見えられた。そして綾部さんのお取り次ぎでお願いをさせて頂いておったら、此処一週間の内に病気は持ちなおして此の儘で行きゃもう、大変な病気らしいですけれども助かるかも知れんと言う所まで行っている。
 これは昨日の綾部さんのお話なのです。そう言う所からです、私は助かりの手掛りを作って、そして、わんわん泣かにゃおられんごたる所がです、泣かんで済む様なそれこそ、ありがた涙に暮れさせてもらう程しのおかげをね、頂いて行かなければならんのですけれども、さあその病気が治っていきよる事なんか、もうなんち言うですか本当におかげとは頂ききってない訳です。ね。それでもやはり神様のおかげを下さる。
 是は10日ばかり前の事でしたけれども、此処の合楽の団地から初めてお参りをしたかた、田中さんのお導きで参ってきた。お母さんという人がお参りをしてみえる。此処の中に大きな石が幾つも出来ておる。お腹の中にその為に切開手術をしなければならんというのである。丁度誰かそういうおかげを頂いて、その人きておりました。どなたでしたかだから此の方はね、こういうおかげを頂かれたのですよと。
 合楽食堂のお婆ちゃんもこういうおかげを頂かれたのですよというて、その方が知って折る範囲内でおかげを受けた話をさせて頂いた。ね。願わくば手術でもせんで済む程しのおかげを頂きたいというのが願いであったのでしょうけれども、私は手術をさせてもらわにゃおかげが分らんと申しました。だからお医者さんが手術をしなさるのですから、ね、お願いをしてお縋りをなさいと言うておったら、それから、昨日おとといでした。御礼に出てみえました。
 それもまあおかげじゃろうち思いますという事。もう医者が切開手術をしてからね、気の毒がるち。「こげなはずはなかった」ち。確かにレントゲンにこげな風に石が幾つでん出とるとじゃけん。写真に。それが実際開けて見てご覧なさい、いっちょんなかったっち。 ね。まあだからそういう事はです、そういう例えばその、信心しておかげを受けると云う事、ね、願う氏子におかげを授けと仰るからそう言うおかげを下さるのですけれども、その次の理解聞かせて、理解申して聞かせと仰る所を。
 頂く姿勢を人間が作って来なければです、人間の助かりはないのです。そこに命が助かったとか、難儀な問題が助かったというだけならね、是はもうのど元過ぎれば暑さも忘れる。必ずそうなんです。そのことを通して信心が分からせてもらう。そしてその信心が分かるという事はどういう事かというと、ね、いよいよ自分が本当なものじゃないなと分らせてもらう事。ね。今までは嫁ごがほんな事じゃないと思いよった。息子が間違っていると思うておった。
 主人が家内が違うておる、自分が本当なこつと思いよったけれども、その、ほんなもんと思いよった私が本当なものでない事が分かって来る時にいよいよ、本当なものに憧れる所の信心が生まれて来る。いわゆる神様に向かって動念心が湧いて来る。いわゆる信心が好きになるという事なのです。ね。いよいよあれも私が是も私がと、我の力ばっかりをはっておったが、ね。実際におかげを頂き、実際に分らせて頂いたら、自分がいかにも無力な自分であったか、障子一重がままならぬ人の身であると仰るが。
 成る程そうであると、合点が行く様になって来る。其処からです限りない力に、縋らなければおられないと言う事になるのです。いよいよどんこんならんごとなって、それまでは自分でどうかなると思っとる。どうか出来ると思うておる。ね。今日は上野先生が前講を勤めておりました。今日は二代金光様、四神金光様、四神貫之君の神と、ね、三代生神金光大神様の、お徳に報い奉るというお祭り、それに合わせて、道の上に色々功労にあった方達の御霊のいわば、お働きに対してお徳に対して。
 それに報い奉るというお祭りであります。昔はそれを、四神様のお祭りと申し上げておった。だから、現在では四神様のお祭り、三代金光様のお祭りと言う事になりましょう。で、亡くなられた、教師の方達、いわゆる先生方、特別の功労になった方達の御霊様も合併して御座いますから、それに対する所のいわゆる報徳祭。何時もは此処から沢山のお参りを致すので御座いますのですけれども、私は今度お参りが出来ずに、若先生達が夫婦でおかげを頂きました。
 それでただ今丁度、若先生と七名でしたか、こっから参拝させて頂いた。今あの帰って見えた所です。それが今度今度と云う訳じゃ無いが、大変お参りが少なかったと言う事で御座いましたが、ね。本当に相済まん事だと。本当に報徳祭は九州のお祭りと言われた。小倉の初代の桂松平先生が二代金光様、四神金光様のお取り次ぎを頂かれて、四神様のおかげで命を助かり、四神様のおかげで九州の道が開かれた。
 四神様のお取り次によって九州の道がいわば、あちらこちらに教会が沢山出来ると云う様なおかげが頂いた。四神様の桂先生のご在世中は、ね、九州のお祭りだと言われるくらいに九州から沢山のお参りが団体を組んでお参りになりました。それが、最近は段々、団体列車すらが出らなくなってきた。教会から、参る所もありゃ、参らない所もある。まあ、何名か参る、先生達が参いなさる。まあここの場合でも特別の事情がありましてからですけれども、もう六、七名の者がお参りをしただけであった。 
 本当に相済まん事でしたけれども、けれども、合楽の場合はねそれがね、成程、お参りは出来なかったけれども、それがより有り難いと云う事にです、凝視されて行っておるという事が合楽の信心と思います。成程今度親先生がおいでられなかったから、お供が出来なかった。ね。出来なかったけれどもです、やはり心はお参りさせて頂いておる。まあ、今日のお祭りは皆さんその積りで礼拝された事であろうと思いますけれども、ね、お参りをすればやはり、金の五千円なっと旅費だけでも掛かる。
 だからそれを、ご造営費にお供えをするという方達が段々多くあったと言う事。ね。是はどう云う事になって来るかと言うとです、その事が四神金光様のおかげで此処に生きた働きと言う物を現わして行く事の、元いになるものですから、ただ、無信心でお参りをしないというのではない、ね。帰命未来があっての事。と云う様な信心に皆さんの信心が進んでいっておられると言う事が有り難い。ね。段々信心が分かって来て、そこでなら、どの程度分かってきたかと言うとその程度であって。
 まあだまあだそんな事であってはならない。いわゆる、上野先生が申しております様に、最近は私自身が助かりたいと言う事でいっぱいですと言う。人じゃない。私自身が助からなければと。そして、それは苦しい事であろうが、ね、悲しい事であろうが、様々なその問題が全て私自身の助かる事の為にあるんだと言う所までは分ってきた。ね。自分自身が本当に助かると言う事。自分が本当に助かる、助かりたいと、ね。だからお取次ぎを頂いてどうぞどうぞと言うてお願いをしただけではいけない事が分かる。
 どうぞどうぞという間がいわゆるさっきから申しました、その、石が無くなったりガンが溶けて無くなったり、ね、切開手術をして見た所が確かにレントゲンには写真が残っておるのに関わらず開けて見たら無くなっておったと云う様なおかげから、信心が分らせて頂いて本当の意味のそういう意味の助かりではなくて本当の助かりを願わせて頂く様になったと。 そこにその本当に助かる事の為にです、ね、私が助かる事の為に様々な問題があるという事。ね。
 それでその問題は御の字を付けて頂かせて頂く程しにです、私が助かる事の為にそれを頂かなければならんという事が分かった。所がです、実際問題に直面致しますとね、それを有り難く受けると言う事では無くてです、その事に難儀を感じておる所に私共の助かろうとして助かり難い自分のいわば業の深さを、まあ先生自身が感じてあるというのである。しかも日々それを本当に先生たちの場合なんかでももう、其の事だけに取り組んでいるそれでいてぎこちない自分、ぎこちない自分の助かりと言う物がです。
 はがゆく思われると云う訳である。そこでなら、是から、どう云う事に、なら上野先生がいよいよ焦点を置かなければならないだろうかと。ね。いよいよ自分が天ぷらだと言う事を分らなければいけないと言う事。成程白衣を着て羽織を着て、金光様の先生ですというて、金光様の先生ではあるから、もうあっちは随分信心が出来て御座るじゃろうと思うけれども、信心が出来ておると言う事はその人がどれだけ助かっておるかと言う事。そこに上野先生の場合は目覚めてきたと言う事です。ね。
 先ず自分自身が助からなければならない。そこにはどう言う事になっておるかというとです、自分は本当のものとは思えないけれども、あの人はまだ自分より本当のものではないと言う風に見ておるね。ですから愈々自分が本当のものじゃない、自分が所謂天ぷら本当なものじゃないのを天ぷらというでしょう。コロモで隠しておる自分をね。そのコロモで隠しておる自分自身がです、もっともっと掘り下げられなければならない。
 もっともっと自分が本当のものでないと言う事が分かって来る時にです、ね人の非とか、人が本当のものでは無いと云う様な事やらは、目に付かない様になって来る。是は自分が出来る。是は私は自分でしきると思うておる事柄の中からでもです、そうではなくてです自分では愈々力のない無力な私であると言う事を愈々、是は上野先生だけの事だけではない御互いが愈々分って行かなければ、それは本当に自分が助かりたいという願いを立てなければ其処ん所に気が付かない、自分自身が本当に助かりたい。ね。
 そこでね矢張り信心が好きにならなければいけんのです。昨夜私一人でお風呂に入らせて頂く。もう夕暮れでしたからまだその、電気を付けんでもよいと言うくらいの時分に入りましただから電気をつけずに入る。ね。やはり勿体ないのですよね。是は信心させて頂いて愈々その何というでしょうかね、価値観とでも申しましょうかね、その値打ちとでも申しましょうか、いうなら神様の恩物として頂かせて貰うと云う事。
 ですから電気一つでもです、私有り難く頂かせてもらわなければならない時にはもうどれこそ百色光、百点けてもそれは良いのです。けれどもね点けなくても済む、例えば電気だけではないですけれども、ね、ならばですそれをやはり押し頂いて頂く心というのはやはり始末倹約をする事だと思う。ね。甘木の初代が枯れは枯れ枝一枚でも神様の恩物として、押し頂いて頂かれた。下駄を履かれるでも歩かれると、しばらく行かれるとこうやって、履き返られた。
 片擦れしてはならんというのである。と言う位に大事にされた。それは甘木の先生はけちんぼうではなくてです、脇から見るとケチんぼうの様に見えるけれども、神様からの恩恵みの物をです、その様にいわば大事にされたと云う事なのです。それ程に大事にされる。その大事にしなければおられない。そこに甘木の先生の信心があったわけです。ね。ですから、私そこら、其の先何時もの事ですけれども。
 入らせて頂いておったら、暗くなった。だからちょっと出て点ければ良いのですけれども、まあ是で結構、体も洗うたし、体を拭くだけだから、電気を点けんなりに薄暗いなかに上がらせて頂いた。私はお風呂から上がってから痛い痒い所に必ず、お神酒をそこにおいております。小さいビンに。そのお神酒を頂きます、すぐ、体にも付けさせて頂くのです。所が薄暗い所で手探りでこうしよったもんじゃけんで、これが下におちてしもうたんです。したがコンクリートですからもう、粉微塵に割れた。
 お神酒ももうお粗末になった訳です。すみませんと言うてからまあそれをそこで、もう暗いではいかんから電気を点けましてから、もうそれこそちん塵んに割れてしまうておる。例え此処へ落ち取るとを手でこうしてから、お神酒をこうやってしよったら、此処に、ちかっとしたかつが此処に抜っておる。血がどんどん流れよる。はあそれをまた抜いで、綺麗にこげんやって拾いあげて、そしてあのお神酒がびちゃびちゃしておりますから、勿体無いと思うてから、こうこうしたら、またチカッとするもん。(笑)
 そしたら手にびんが付いておる。それが此処にささっとる。それから又それを取らせて頂いてから、何回も何回も、雑巾で拭いたりさせて頂きながらね、は、お茶で言う所の、侘びとか錆とかと言う物は、こういう時に感じるものだと、いうくらいに有り難かたったです。私は。もう本当に是を例えば信薄き人が見ておったらね、あなたが信心信心と言うてそげな事をするけんが、電気をちゃんと点けてしなされんけんでそうと、例えば家内がそう言うかもしれません。家内が見ておったら。
 私はそれを一生懸命こうやってそのお神酒を体にこうこう付けさせて、出来るだけいっぱい付けさせて頂いてそれから、片付けさせて頂いておるうちにです、なんとも言えん有り難い有り難いというか、楽しいというか分からない。ね。そしたら私の心の中に響いて来る事なのです。「芽が出りゃ摘まれ葉が出りゃかられそれでも茶の木に花が咲く」と頂いた。芽がでりゃ摘まれ葉が出りゃかられそれでも、それでも茶の木に花が咲く。ね。私は信心を進めて行くと云う事、いや信心を分からせて頂くと云う事。
 それが楽しゅうなると云う事。此処の所をですねはあこげな事はもうまたからするめ、こりゃ電気をばちばち点けて明こうしてからせにゃ出来ん。例えばならそういう例えばそういう目にあいましてもです、なら明日はこうこうと電気を点けようと言う思いはさらさらない。やはり薄暗いなかで恐らく続ける事であろう。今日は繁雄さんと二人でしたから、繁雄さんが中で点けちゃったけんもう明るいなかでしましたけれどもです、ね、信心をさせて頂いておって。
 どうして此の様な事が起きて来るであろうかと思うともう信心は留まっておる。是はまだ自分の信心が足りんのじゃと思うてそこから一心の信心をして行けば、おかげが頂かれるというのである。もうこげなばからしい事はするもんじゃなかと、と、もうさらさら思わない。明日また同じ事を繰り返すかも分からない。こちらが信心になっておるのである。ね。お神酒も勿体無い電気も勿体無い。
 本当に勿体無い有り難いでさせてもらいよるとにどうして落ちただろうか、どうしてこぼれただろうかとはさらさら思わない。芽が出りゃ刈られ、葉がでりゃ刈られておっても、それでもやはり自分の心の中には信心の喜びの花が咲いているのであるというのである。あれを願うたら願い通りになった。自分の思い通りの御祈念が成就したと、そん時に有り難いと言う物も有り難いでしょうけれども、十何年も前に原さんが朝の御祈念に一生懸命自転車で参って見えよった。どんなに考えても有り難うしてこたえん。
 目をつぶって、本当にありがたいと思うて目をつぶったとたんに自転車がたにの中に落ち込んだ。(笑)ね。それこそ、それでも椛目参りを止められない。是なんです。信心とは。ね。はあ有難かちいや、おてこまんかと云う事じゃないて。信心何事にも信心になれよと仰るから、信心になっておりゃそんなに怪我をしたり、ね、私は昨日今日怪我したりから此処股くらも怪我しておる。こうこうやって、ちかっとしたけんと思うてから、もう刺さっておる。こまかつ。
 それで、今度は取る時に大事じゃん。ね。その大事しながらね、有難いのですけんで。信心ちゃそれですばい。此処んとこなんか大分血がもう風呂から上がったら出て来よった。ね。それでも有難い。それでもやはり茶の木に花が咲くのだと。ね。信心のね進めかた、こういう例えば進め方と言う物がね、身に付いて来るとです、お茶でいうなら、是が侘びあろうか錆であろうかというお茶の味わいと言う物がいよいよ有難いものになって来る様に、是は信心の場合ですから。
 侘びでも無からなければさびでも無いですれども、ただ、有り難いではないけれども、それがね、はあ、こげな事ならもう、明日からこげな事はせんと云う様な心が起こらずにそれでもやはり有り難い花が咲いておると云う事がです、何とはなしに楽しいと云うか有り難いというか、それがもう、ゆっくりゆっくり時間をかけて綺麗にお掃除が出来ると云う事が有り難い。ね。
 そこで例えばなら、今日の上野先生の例を取るならばです、助かりたいと是はもう本当に思うておる。しかも私の上に起きて来る所の腹の立つ事でも悲しい事でも辛い事でもその全てがいよいよ私を助けて下さる事の為の神様の御働きと思うからそれを御事柄で受けなければならんと言う所迄は分っておる。信心といえば例えばガンが流れたり、信心ちゃ、奇跡が起こったりすると言う事はもう、何時の昔に通りぬけた。そして信心とはもう誰ではない彼ではない私自身が助かる事だと分らせて頂いた。
 その私自身が助かって行くと言う事も、どうぞ助かります様にというだけではなくて、その私が助からなければならんからこそ神様はいろんな問題を持って、是によって助かれよ、是によって豊かに愈々限りなくならせて頂けよ、いよいよ、我無力である事を分らせて頂けよ、ね、愈々自分がまだまだ本当なものではない事を分らせて頂けよと言う事になるのだと分っておるのだけれども、時々やっぱり自分でほんなこつであっちがほんなこつじゃない様に見える所に不平が起こったり不足が起こったりする。
 不満が起こったりするのである。此処ん所の思いがけ、いよいよ自分が本当の物でない時にです、いよいよ本当な物に憧れる所の働きと言う物は是から湧いて出て来るのです。自分に力がないと言う事が分れば分る程です、無限力というか絶対力というか、その絶対力に縋らなければおられないのである。縋らなければ立ち行かんのである。自分の我が無くなって、上野先生の場合は自分の我が段々段々影を薄くして行く事を楽しみに信心しておる。しかも是程信心するのにと云う様な事が起こって来ても。
 そこん所を例えば昨日の風呂の話じゃないですけれどもです、それを取り片付ける事が、それを処理して行くと言う事その事自体が楽しい。其処に侘びの心が在り錆びの心があると私は今日言った様にその所迄、私は自分の信心と言う物が育って行かなければいけないと言う風に思うのです。ね。そういう心のお育てを頂かせて頂いて、ね、初めてです、二代金光様、四神様にお礼が申し上げれるのであり、三代金光様におかげで此の様なおかげを頂いておりますと。
 四神様が教えられた、ね、「真で成就せぬ事はない」。成就せんその時は氏子に真がかけたと悟れと昨日の朝の御理解ですね。信心するものは何事にも信心になれよと、何事にも真心になれよと言われるが、ね、成就しない時に、自分の真心がまだまだ、欠けておるんだと悟らせて頂け、三代金光様は信心には辛抱する事が一番大切で御座いますと教えられた。その所をです、四神様あなたのそのお言葉を日々の修行の上に現しております。是は私はいよいよ助けて下さる為の働きと分りながら。
 まだ心の中にすっきりと致しませんが、此処ん所を辛抱し抜かせて頂く事が一番大切と教えられるので御座いますから、此処ん所を自分の信心の稽古の目当てとして信心の稽古をさせて頂いておりますという信心が頂けて、初めて今日の報徳祭なら報徳祭にお参りできるという事にならなければ大してお喜びなさらんと思うのです。芋ずるって沢山お参りをする、成程神様の御比礼だ。ね。
 来年は此処は二百名の人がお参りする様に申し込んであります。ですからそれこそもう、老いも若きも誰もかれもが、そのお祭りに欲させて頂こうと云う事も同時ですけれども、そのお参りをさせて頂いてです、此の様に助かりつつあります、助かって行よりますと云う事をもってお礼の参拝と云う事にならなければです、ね、今日の場合でいうなら、四神様でも三代金光様でも喜んで下さらん。
 是は参って来るばっかりで、いっちょん信心は進みよらんと言う事になって、むしろ神様に歯がゆい思いをさせる事になってはならんのですよ。九州の信心がです、その辺の所に私は色彩を欠いてしまっておる私は原因がある様に思うのです。今日私御神前に座らせて頂いたら、一心とは、神の心と一つになる事と頂いた。一心とは様々に頂きましたが今日は、一心とは神の心と私の心が一つになると云う事なのだ。
 それが一心なのだ。ね。四神様のおかげで、三代金光様のおかげで私、あなたの教えられた信心を此の様に進めさせて頂いて此の様に助かっておりますと言う所からの祈りが発せられたものでなからなければ、三代様と一緒になれんし、四神様とは一緒になられない。其処では一心が立たんと云う事になる。ね。そういう意味において、いよいよ信心をね分からせてもらう。
 おかげを頂かせてもろうてね、いよいよ自分がね本当のものではない、御教えを頂けば頂く程、自分がいよいよ本当のものではないと言う所に焦点をおき、自分にはまだまだ、我力がある、いかにも自分で、自分で出来るごと自分でしてやれるごと思うておるけれども、是は、させられておるのであり、自分には実際は力が無いのだと本当に分かった時にです、その本当に自分に信心がない。
 力が無い事が分った時にです、本当に無限力にすがると云う事が、本当な事になって来る訳。本格的に。そういうやはり根本の所をです、私はいわゆる私がてんぷらであると云う事実、本当のものではないと云う事実。自分には力がないと云う事実を様々な形の中からですそれを体得させて頂いて、お縋りをするという信心になって来なければならんと思うのであります。
   どうぞ。